「時代物」
ひまがあると、わたしは時代物のテレビ映画や小説を見たり読んだりするのが好きである。
年のせいかも知れないが、武士が話す「・・…でござる」などという字面を見ただけで拒否反応をおこす若いひとが多いと思うが、
わたしの気持ちの中に、すーっとはいるのである。
とくに武士家族の会話や場面にはひとりでうなずいて、これらの作品から匂ってくる、
江戸の匂いを大切にしたいと感ずるのである。
この匂いを嗅ぎあてることは、それだけその時代に入っていくことである。
好きな時代小説を読んでいると、書かれた文章の一節から、その当時の江戸がありありとみえてくることがある。
時代のぬくもりを肌に感ずるひとときである。
現代の若者は、モラルと同時にモラールも失ったと嘆かれた
ゴキブリ日記53に書かれたものを読むと、
従来の価値観が、収拾しがたいまでに分裂してしまって、何を信じていいのかわからないといった今日的状況、
それは日記57にも書かれていますが、
こういった凄まじい世の中の変化にどう対応したらいいのか、わたしのような年老いたものは、辟易するばかりです。
わたしが時代物にぬくもりを感ずると書いたのは、そうした世の中の変化とは無縁でないと思うからである。
イデオロギーが力を失うにつれて政治的権威というものも弱くなり、かっては繁栄と権威を誇った企業も、
終身雇用という背骨を失って不安定な職場に変わった。
学校では教師が生徒に殴られ、家庭では親が子供の暴力や非行におびえる。
こういう状況を敏感に反映しているのが、前記のゴキブリ日記の内容ではないかと思う。
世はいま新しい時代を迎えているのかも知れない、と思うことがある。政治にも、企業にも、
家庭にも信ずべきものを見出し得なくなったわれわれが、車やサッカー、野球に、
それぞれに自分のよりどころをもとめ、手さぐりしている時代かと思う。
しかし、このような混沌とした世の中になっても、時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。
江戸時代の人情が、現代の人情とちがうだろうか。
人情紙のごとしと言われた不人情、相手の不遇に思いをいたす人情というものは、江戸時代と変わらずに、
今日的状況の中にもちゃんと息づいていることにみなさんは気づかれていると思う。
現代は、どちらかといえば不人情が目立つ時代である。企業が社員を見捨てたり、
ささいなことで隣人を訴えたり、親は子を捨て、子は親を捨てる。
だがそういうことは、いまにはじまったことではない。昔も行われたことが、いまも行われているのである。
いったいどういう世の中が来るのかと思うような、いまの状況も、歴史を考えれば、こういう価値の混乱は、
戦後の一時期にも現れたし、また江戸幕府から明治政府になったときにも、混乱があったことだと思いあたる。
このような時代で人間そのものが、どれほど変わったろうか。
一見すると時代の流れの中で、人間もどんどん変わるかにみえる。
たしかに時代は、人間の考え方、生き方に変化を強いる。
たとえば企業と社員、嫁と姑、親と子といった関係も、昔のままではあり得ない。
しかし、人間の内部、本音ということになると、むしろ何も変わっていないというのが真相である。
どんな時代にも、親は子を気づかわざるをえないし、男女は恋をする。
自分より出世の早い友人に対する嫉妬は昔もいまもあるし、無理解な上役に対する憎しみは、江戸城中でもあった。
このように人間の根底にあるもの、本質的なものがなんら変わらないとすれば、
人情からかけ離れた世の中にはならないような気がするのである。
97/12/13(土) 加藤 長治