ごきぶり日記289
商いの本質とは
漢字の“商”は @はかること、相談すること。A売り買いして利益を得ること。
(広辞苑)とある。“あきない”も収穫の秋に満ち溢れる作物を互いに交換する
こと,すなわち交換を営むことを意味するという。
「・・いずれにしても,商の現象は,恵むこと,施すこと,盗むこと,奪うこと
ではなく,己の物を他に与え,同時に他の物を己に受けて,自他ともに満足する
ところの取引行為・・」(日立デジタル百科事典)で、これが“商い”の本流
ということになる。
つまり商売というものは「物を売って」自分も儲かるが、「物を買って」相手も
満足する、あるいは利益を得るという相対的な関係で、始めて成り立つということ
が原点なのだ。何を当たり前のことを、と言われるかも知れない。
経済が高度に発展した今の世の中では、流通が滞れば生産企業は死活問題となる。
経済が発展すればするほど生産を拡大しなければならなくなり、その結果市場が
狭くなって売る物がなくなり、そして売れなくなる。
企業が生き残って将来に亘って安定に事業を続けて行くためには、商人に頼らず
自分が流通を支配して市場を作り、自社の生産活動を流し込んで行くシステムを
作らなければならなくなって行く。
こうなると売り手と買い手という単純な構図ではなく、自己に従属する機能を
大きくして行かなければならないから、いわゆる“商い”とは相反する。
これを配給説というらしい。語源は判らないがお互いの利益を前提に取引する
“商い”とは違い、自らが自らの発想でものを作り自らの機構に流す、つまり
配給するという意味と取れば分かり易い。
資本主義経済の究極の問題はさておいて、私は“商売”という言葉の方が好き
である。大阪商人の“儲かりまっか”の心である。
物を売るということ。 それがハードであれソフトであれ提供するものがお客に
取ってどれほど欲しい物か、得するになるものか、そこにお金を払う価値が存在
するかを原点にしたい。
面白いもので、人の置かれた環境によって物の価値観が全く違う。
その昔の建設業界がそうであったように、一つの受注が何百億、何千億円であった
とすると、そのリベートは何十億円を下らないかも知れない。そうなるとその人の
金銭感覚はそのレベルになってしまい、一般人の常識から大きく外れてしまう。
真面目でちまちました業界が、恐る恐る高い値段を付けたつもりが「なんだそんな
に安いの?」とはぐらかされる。あるいはこれも価値観の一種なのかも知れない。
この感覚値段で商談が決まったとすると、売った方は大儲け、買った方は安い買い
物をしたと思うだろう。
昔の電力会社が大型同期電動機を値切ると、その値切った金で通信システムが
そっくり出来てしまうという話を聞いたことがある。そこに商売の面白さがある。
メーカーは相変わらず勝手に製品企画を立て、膨大な宣伝費を掛けて売りまくろう
とする。コマーシャルを流しっぱなしにしてマインドコントロールを掛けようと
しているのかと思う物がある。調子の良いリズムを繰り返し叩き込まれれば確かに
暗示を掛けられる。これもマーケティングの中のプッシュセールスなのだろうが、
なんとも厚かましく、商売とは呼びたくない。
たまにまぐれ当たりのようにヒットしようものなら、業界挙げてハイエナのように
群がって来る。ゴールのないマラソン、どこまで走って、どこで息尽きるのだろう。
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