ごきぶり日記241
危ない社会への道のり
大阪府池田市の児童殺傷事件は全く行き場のない憤りと、暗然たる気持ちにさせ
られた。この他にも幼い子どもたちを襲う事件が毎日のように起こっている。
ご両親や縁戚の方たちにとっては何処へその嘆き、苦しみ、痛みをぶつけたら
よいのか察するに余りがある。愛児を亡くされた方々には、謹んでお悔やみを
申し上げたい。
毎日の牛乳紙パックに、行方知れずになった子どもたちの顔写真が印刷され、
探して欲しいという悲痛な叫びが滲み出るアメリカと、違うことのない危ない
社会になってしまったようである。
マンハッタンで、子ども同士の“いさかい事”を見るともなく眺めていると、
中年の女性が、あまり見ないようにと注意してくれたことがある。「事件に巻き
込まれますよ」という忠告であった。
通りすがりの人に地図を持って道を聞こうとしても全く反応せず通り過ぎる。
目と目を合わせようとしないから、まるで自分が透明人間にでもなったような錯覚
を起こす。まさしく“人を見たら犯罪人と思え”である。
アメリカの都会に住む人たちは一見、何事も感じずに平穏に暮らしているように
見えながら、身辺には危険が一杯で、いつ巻き込まれてもおかしくないという
危機意識を持っている。だから前だけを見てさっさと歩く。犯罪都市に住む人の
身の処し方、つまり危機管理というべきか。
だが、“世界一安全な国”という日本の安全神話はなかなか崩れない。
永い間の安全感覚は事件があっても、それは何処かよその社会であり、まさか自分
のところではそんなことは起こるはずがない、と思い込む。“明日は我が身”の
感覚が起きて来ない日本、だからほかで事件が起こっても、それを想定した警備を
行わおうとしない。
これほどの事件が起こっても日本人はこれが自分の廻りにも起きうる社会になって
しまったと未だ認識出来ないのかも知れない。
京都市内の小学校で二年生の児童が刺殺されてからも、各学校は刃物を持った男が
日中、侵入するという想定はしていないようだ。子どもが帰ったあとから翌日の朝
までは警備員の居るところは多いという。だがそれは単なる侵入犯、つまり泥棒の
ためだろう。
異常な社会の異常な犯罪者は最も抵抗力のない弱者、子どもたちを襲う。
守るべきものは学校の資産ではなく、子どもの生命であることを認識していない。
アメリカなどでは日中、目立たないように警備員が配備されているし、警官も見回
っている。未だに安全神話の崩れない日本は、全くの無防備地帯になっていると
いうことか。
警察庁幹部が「日本も、身の回りの安全に対する考え方を変えなければならない
時代になった」と話している。
寂しい駐車場では「ホールドアップ!」されないように、ホテルの部屋に入る時は
前後に人が居ないことを確かめ、ドアフォンでは滅多にドアを開けず、エレベータ
の前には立たず、人を見たら犯罪者ではないかと疑い、絶えず身の回りの安全を
確かめる。家にはせめて木刀を配備する。それが良いとか悪いとかではなく、
そんな社会になって行くという前提で考え方、生き方を変えなければならないと
いうことか。
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