ゴキブリ日記51
アメリカ人になった男
でも、あの男は正真正銘の大企業の社員だった。
決してスマートで教養が深いとは云えない、どちらかというと以前、
テレビで見たことのある3人組のコメディアンを思い出す、
人間味溢れるユーモラスな風貌であり、実際そんな性格を持った愛すべき人間だった。
「---だった。」とはいうものの、何も過去の人間ではないし、
依然としてれっきとした大企業の社員であることは確からしいが、
もう15年もアメリカに行ったきり帰って来たという噂を聞かないから、
記憶の上では過去の人間になってしまったという意味である。
彼自身は自分ほど常識的で人の心を理解し、優しい心を持った人間は居ないと信じていたろうし、
事実そうだったのかも知れない。
アメリカだから自分で買った大きな家に住み、熊のような秋田犬を飼い、
可愛いい小学生の一人息子が居たから普通のサラリーマンだったのだろう。
でも、やはり変わった人間である。
これが一流企業の社員かと思うほど変わっていた。そんな彼のほんとの姿を書けるかどうか心配である。
この話は、やや差し障りがあるかと思うが、でも、もう10数年たっているのだから、
この男のためにも時効としてお許し願いたい。
どこの企業にも管理職の昇進試験がある。
この男にも、その性格を知っていて心配でしょうがない先輩が居るらしく、
彼の手元には日本から論文の参考意見やら中にはそのまま出せといわんばかりの論文が届いている。
これも彼の憎めない人柄にあったのだろう。
そんな彼を見ながら微笑ましく思っていたある日、
もう西海岸の夜も更けかかった時間に彼が会議室の一角で何かやっている。
何の気なしに帰ろうと思って覗くと論文と睨めっこしている。
大変苦労をしているなと思い、こんな趣旨の論文が君に良いんではないかと余計な助言をした。
普通なら感謝してその趣旨でかき始めるところだが、彼は突然に自分の部屋に戻り、
原稿用紙を抱えて戻ってくるなり、「一字一句間違えずに全部書いてよ」と私に原稿用紙を差し出すではないか。
あきれ返ったが、人の良い私は彼の書きそうな文章と文体を使って、全文を書き上げた。
夜も大分更けていた。こんなことは会社に知れたら大変だし、彼の将来にも関係する。
だがこの男はそんなことに一向に頓着しない。それどころか、こう云うのだ。
「もし試験に落ちたら全部あなたの責任よ」と、しゃあしゃあとしている。
これが上司に言う言葉か、と思うものの、どうしても憎めない。
本当に私の書いた論文をそのまま提出したかどうかは確かめた訳ではないし、
彼の名誉のためにも「自分の言葉で書き直した」と云うことにして置きたいし、事実そうだったのかも知れない。
彼はよく、「お父さん元気?」と私の部屋に入って来る。
自分の方がお父さんの様な顔をしているくせに、と思いながらいつもそんな挨拶から話が始まる。
ある日、セントルイスに仕事の話があるんで、一緒に行ってくださいよ、と云う。
まさかこの前のハワイの様に、突然にどこかへ行ってしまい、「アメリカは一人で生きなければ駄目ですよ」なんて、
いうんでは無いだろうな、と念を押さなければならない。
セントルイスを起点に東部の販売店を転々として訪問する。
日本と違って、店舗を持ち、外にでかでかと看板を出すことはしないから、販売店といっても普通の民家である。
だから探し当てるのが大変で、頼りにするのは住所以外に何もない。ようやっと探し当てても、表札すらない。
でも彼はそんなことに一向に頓着なくずかずかと入り込む。
初めての販売店を訪問した時のことだ。
アメリカには特約店などというものは無いから(実際にはあるのかも知れないが)
何処のベンダーだろうと関係なく付き合う。
そこは販売店というより、雑然とした倉庫の様な感じで、迷路の様な事務所の奥深く案内された。
互いに挨拶を交わす。さて会社の紹介をすると「聞いたことがないなぁ。ちょっと調べて見よう」
とパソコンを動かし、売り上げ順位ごとの会社名をスクロールする。
「あっ、あったあった最下位に」
日本では知らぬ人もない超一流企業も、アメリカ市場の競争力がものをいう世界では、まさに形無しである。
売れるものなら会社名など関係ないという徹底した割切り方をまざまざと見せつけられる一面である。
こんな世界の商売が、彼には向いているようだ。
大企業マンというより、むしろ中小企業の様な仕事をこつこつとやり、
生き生きとアメリカの泥臭い生活を楽しんでいる。だから日本には帰れない。いや帰るところがないことだろう。
一人息子も成人して、もう、ゆうに二十歳を超えており、アメリカ人になってしまったかも知れない。
<ゴキブリ後記>
さすが大企業だ。型破りの侍が世界で活躍している。
もっと凄い野武士がうようよしているそうだが、こうなると日本には帰れなくなる。
かくして10年、20年と異国の地で生きることになる。
どっちが幸せかね。
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