ごきぶり日記195
山椒魚の恐怖
今日、7月10日は作家、井伏鱒二の没後7年忌に当たります。
処女作と言われている「山椒魚」は20頁に満たない短編ですが、悟り以外に救い
の無い、永久幽閉という恐怖のテーマで、悟りきれない人間の苦しみを語り掛ける
がために、考え込まされてしまうのだろうと思います。
うっかり小さな岩屋の中で暮らすうちに、自己の発育という自然の摂理によって、
杉苔(すぎごけ)と銭苔(ぜにごけ)の密生している、小さな岩屋で身動きも
出来なくなり、何とか外に出ようと、出口に突進すると「コロップのように」
岩屋の出口を塞いで、自分の身体も抜けなくなってしまう。
これらの苔を嫌い、小魚やメダカの習性を「何と不自由千万な奴らであろう!」
と嘲笑うが、完全に幽閉されてしまった我が身を「何たる失策であることか!」
と嘆き、救いの無い我が身に目がくらむような思いをする。という話でした。
迂闊にも成長という自然の摂理、法則を忘れ、永年、岩屋に暮らしたのはすべて
自分自身が為したことで、人に閉じこめられた訳ではないから、何びとも恨むわけ
にはいかないのです。
何も此処で文学を論じようという気は毛頭ありませんが、永久幽閉という極限に
置かれた場合、「悟り」しか無いと思う作者は、山椒魚を極限まで追いつめるの
ですが、結局は「悟りにはいろうとして、はいれなかった」ということに
なります。
ここで連想するのは岩屋ではなく、人間の住む社会という枠のことです。
学校にせよ、会社にせよ、日本社会独特の定めがあり、どうしてもこの枠が
外せません。
外の景色は移り変わるのに、自分だけは逃げ場のない、永久閉塞のような恐怖感
と絶望感に苛まれている人が多いのかも知れません。
出られないと分かった時、山椒魚は紛れ込んで来た蛙を道連れにしようと、
大きなからだで出入り口を塞ぎ、蛙との二年間の闘いを始めます。
最近の子供たちの思考も、その結果としての行動も、先行きの見えない社会と
規制だらけの古い社会、会話の無い、あっても理解にはほど遠い、親や先生や
周囲の人々など、逢う人すべてが小泉八雲(ラフカディフォ ハーン)の怪談、
ノッペラボーに見え、出口の無い岩屋と同じように、どうにもならない恐怖感
と絶望感がマグマのように積み重なっているのかも知れません。
子供たちは岸壁に体当たりする気力も無く、そのすべも知らず、幼い頭で必死に
解を求めているのでしょう。それが常識では信じら得ない犯罪を起こす方向に
向かうとすれば、救いのない絶望した山椒魚になっているということですね。
知っての通り、「山椒魚」と蛙は二年に及ぶ睨み合いの果てに疲れ切り、お互い
に相手を憎む気を失って行くのですが、悟り切ろうにも悟れなかった著者の、
せめてもの救いを、恨むことをしなくなった蛙に託した著者の心境は、何だか
分かるような気になります。
現代社会の歪みと、旧弊から抜けきれない悩みは何処まで進むのか、完全幽閉の
恐怖のようにのしかかっています。
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