ごきぶり日記183
病院のガス室から
“ガス室”つまり喫煙室のことなのだが、少し言葉が悪すぎるかも知れない。
今のところ、何処の病院も形ばかりの喫煙室を残している。ところに依っては
国技館の土俵の上の屋根のように大きな換気扇を設けているところもあるが、
殆どは換気扇をつけても効果の無いような狭い密室になっている。
部屋の内部は黄色に変色し、ニコチンの臭いが消えない。まさに「ガス部屋」
なのだが、此処が入院患者の唯一の憩いの場であり、情報交換の場であることを
最近になって知ることになった。
あまり考えたく無い話だが、検便から潜血反応が見つかり、大腸ポリープが
あるという。その昔は便に含まれる鉄分だけを見ていたらしくほうれん草を
食べただけで潜血反応が・・と医者に話したところ大笑いされてしまった。
検査も格段に進歩しているらしい。単なるポリープの摘出だと日帰りで出来る
のだが、最近は世間の目がうるさいから病院も慎重になり、二泊三日、あるいは
三泊四日の日程を組む。
“そろそろ退院だな”と思う頃に運悪く、大型連休が挟まってしまった。
「先生が休みを取っておられるんですよ」と看護婦さんが申し訳なさそうに話す。
これでは籠城する以外に方法が無い。“えぃ、ままよ”とたった二日の禁煙を
破って喫煙室に飛び込んだ。
時間帯も悪かったのか満員なのである。みんなが一斉に“新人だな”という
顔をして迎える。どうやら常連のボスでも居そうな雰囲気である。
それでも、どうぞどうぞとばかり席を空けてくれる。
「どうしました?」と医者の決まり文句のように質問されたので、ポリープを
取るのでというと「あぁ、修学旅行かぁ」うなずいている。
何のことかと訝ったが、どうやら二泊三日の修学旅行になぞらえているらしい。
うまいことを言うもんだと感心する。
病気でくよくよし、お互い傷口をなめるように慰め合っているのかと思っていた
が、驚いたことに誰もが屈託がなく、そんな雰囲気は全くない。
入院生活も、もう半年になるという人も居る。数え切れないほど、出たり入った
りしている人も居る。
だから話が面白い。酒を飲み過ぎて肝臓を壊し、担ぎ込まれた人が退院するや
否や、その晩に一升平らげて、またも担ぎ込まれた話、それをよく知って
いてそばで真剣に忠告する人、点滴をつけながら、ガラガラと引っ張って坂道を
上り、500メートル先のスーパーへ酒を買いに行った話など尽きない笑い話に
時間の経つのも忘れる。
話の途中で若い女性が飛び込んできた。見るとお腹が大きい。臨月が間近だと
いうのにやめられないらしい。みんなが一斉に「もう、たばこはやめなさい」と
忠告する。みんな自分に言うべき言葉なのに。
たわいの無い話ばかりでは無い。この病院の先生方は何処と何処の大学で、構成
は何人ずつ、とか、あの先生は何の権威なので良い先生だとか、設備がどうなって
いる、財政状態は、とまさに詳しい。閉鎖的の医療の世界では一般人にはこんな
情報は滅多に手に入れることは出来ない。永年巣くって来た(?)患者のボスが
見聞きして集めた情報だから迫力がある。
人間誰しも自分の健康状態は完璧でなければと思う。だが、そんなことはあり
得ないだろうし、一病息災で何かあるのが当たり前なのかも知れない。
こうした人たちを見ると、失礼ながら「ごきぶり」の生命力に似た何かを感じ、
我が身を恥じる気持ちにもなる。
要は「与えられた環境で最善を尽くして生きること」なのだろうが、凡人には
仲々それが出来ないようだ。
そう言えばある病院長が話していた。「此処の先代は世界的な権威だったが
そんな偉い先生でもコロッと行くんですよ。どうなるか心配ばかりしていても
その時間、人生を無駄にしているだけじゃないですか」まさにその通りなのだが、
人間、そこまで悟ることが出来れば苦労は無くなる。
それやこれやで修学旅行はちょっとした海外旅行になって9日間を過ごして
しまった。主治医が「休んでしまって申し訳ありませんでした」と謝っている。
人間的な医者と病院には文句も言えまい。
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