ごきぶり日記157
書くことの奥深さ
何もプロの作家になって書き物で生計を立てようなどとは露にも思わないの
だが、これまで何度も文章の難しさを書き連ねてきた。
電子メールの交信の中である人と真剣な議論をするとする。その人が永年の
友人ならお互いに腹の底まで分かっているから、遠慮ない反論を繰り返し、
時には口論になりながらも分かって欲しい、理解し合おうと勤めるだろう。
この場合、背景には確固とした信頼関係がある。
ところがそうでない人とメールの上で議論することは極めて難しい。ましてや
地位や立場の違い、経験の違いが絡めば尚更のことである。
最近の若い人は敬語の使い方を知らないと言われている。例えば書き出しが
「誰それ殿」で始まる。「殿は目下か後輩、あるいは同輩に使うもの」などとは
教えられていないようで、明らかに年長者、先輩と分かる人に殿を使って、
はばからない。
書いている本人は敬語を使ったつもりでいるのだから仕方がない。作法に厳しい
人ならば先ずこの辺でカチッと来ることだろう。
一応の文章は書けるのだが全体として何となく引っかかる。恐らく相手の立場、
意見の違いに対する配慮や気配りが抜けるためなのだろう。
「・・・して下さい」という言葉使いをよく見かける。明らかに命令文なのだ
がこれとて、お願いの敬語だと思っている向きも少なく無いようだ。
酒など酌み交わしての議論となると、お互い論断風発で言いたいことを喋り
まくる。相手の話が分からなくてもうんうんとうなずく、そうした会話の流れの
中では自分の意見を相手は充分に理解したと思いこむ。
ところが同じ問題をメールで議論したとする。論旨明快に話の筋を立てて話した
つもりでも、帰ってくる答えは愕然とするほどに理解されていないことが分かる。
人間は既に形成されている自己の思想や概念を前提に、それを確かめるように
重ね合わせて人の話を聞く。自分の思考回路に沿うものは素直に受け入れ、
合わないものは廃棄するか、適応するように解釈して受け入れる。
個人の育った環境、教育、経験など計り知れない背景の差があるのだから当然の
ことなのだろう。
文章は会話のように瞬間に消え去らない。反復しながら考え、反論することが
出来る。忌憚のないメール論議をやると意見の差が分かるだけではなく、その人
の知識や経験の深さ、幅まで分かってしまうかも知れない。
ある人が「私はメールは嫌いなのです。誤解を招くから」と話していた。
それほど文章を書くのは難しい。だが、熟達すればそれだけに人に理解を得る
手段にもなる。表現や語彙という技法の問題もさることながら、如何に自分の
思想が構築されているか、どれほどに磨きかけられているかという内面の問題が
大きいのではあるまいか。
書き込んでは読み返し自分に問い掛ける。そして人と真摯な深い議論が出来る
ようになったとき、人生は大きく広がるのではないかと思うようになってきた。
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